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サヨウナラ

みんなはなぜそんなにつながろうとするのかわからない。そういう気持ちの薄い私は、理解ができない。そもそもネットの世界が作り出した産物?私は今、ブログを書いているが、まったくもって私の性格には向かないと感じる。たくさんの人に読んでもらいたいという気持ちはあまりない。自己満足に近い。思ったことを吐き出して、自分本位のわがまま文章である。それに付き合っていただいた方々には、大変申し訳なく思っている。私は一方通行が好きなので、相手の思いや感想はあまり気にならない。私は気軽に話をする友人はたくさんいるが、親友はいない。重くなる人間関係を極力避けて生きてきた。これは、私の生い立ちも影響していると思う。自分の殻に閉じこもって生きているのだが、それを不幸だとは感じてはいない。相手との程よい距離感は、私にとって快適な居心地なので、最近のつながり症候群は、私にはよくわからない。

私の好奇心で、ネットの世界にも足を踏み入れたが、最近になって私にはつくづく向かないと思い、もうこれで終わりにしようと決心いたしました。こんな私の稚拙なブログに接していただいた貴重な方々にお礼を言います。大変ありがとうございまいた。

最近のC・Mは面白い

以前はドラマの間に入るコマーシャルは、邪魔な感じがしてその時間に他の用事を済ませることが多かったが、最近のコマーシャルは充実していて、見ていて面白い。ドラマ仕立てにしたり、ドラマの中にスポンサー商品を組み込ませたり、あの手この手と研究していて進化も早く、花火を見ているような楽しさがある。

御笑いの要素も入れてあって、それがウイットに富んでいておもしろい。

コマーシャルが楽しめる時代になるとは思ってもみなかった。

短い時間にいかに効果的に視聴者に訴えることができるか。

これって、どの世界にも共通する。

回りくどい説明は嫌われる。

多くの言葉をつないでも、相手を納得させられない。

たった一言でも生きた言葉がある。

沢山の思いを、短い言葉に凝縮して表現するいい例が、俳句であるが粋な遊びだと思う。遊びといっていいのかわからないが・・・。

物事を、一から十まで説明をする必要はないと思う。

相手によっては、一であったり五であったり答えを残す方が粋ではないだろうか。

何も語らずともその人の前では、恥ずかしいことはできないと思わせる人がいる。

存在自体が語り部というか。

そんな人に私はなりたい。

しかし現実の私ときたら、余計なことばかり喋っていつも自己嫌悪に陥っているのだ。

同じ人間だというのに。

私は、人を引き立たせる役目なのだろうか。

ま!それもいいか。

神に近ずくボーダーライン

羽生結弦選手の演技を見て、異次元空間の出来事のような感動を受ける。それも何度も・・・。限界を超えて待っているものは、神域!インタビュアーが演技中の感想を聞いていたが、おそらく言葉では表現不可能だと思う。

サービス精神豊かな羽生選手は、風とか水とか自然のもので言い表そうとしていたが・・・。

せっかくの演技をいろいろ分析して説明しすぎると、私はなんかな~と思ってしまう。

根掘り葉掘り聞いたところで、本人しかその時の感覚を知ることはできない。スポーツの世界では超人をよく目にする。常に限界を超える努力の積み重ねから沸き立つ超能力を発揮させている。超能力とは奇跡の異名ではないかと思う。

奇跡を起こすのは神の仕業なのか。だとしたら感動を増幅させる演出は見事である。

どの世界にもこれは超能力ではないかと思われる瞬間がある。

それは本人も予想がつかない形で突然やってくる。

何の努力もなしに奇跡を起こすこともある。これをすれば必ずという特効薬はない。

運という不可解な現象も付きまとう。

とにかく神域に入った人たちの戦いは、何が起きるか全く予想がつかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

恥ずかしい失敗

2年前でしょうか。後にも先にも忘れることのできない史上最悪の出来事がありました。

娘たち三人と孫二人総勢六人で近くの温泉に行ったのです。送迎バスで片道2時間ちょっとで着きます。楽しい旅になるはずだったのですが、私としては苦い思い出になりました。一泊したその朝、朝食はバイキングです。控えめにしていたつもりですが、お腹が痛くなり、トイレも間に合わずそのままバスへ・・・。バスはクーラーが効いている上、揺れが激しく途中下車もできないという不安も手伝って、乗り物酔いならまだいいのですがこともあろうに…。(ご想像にお任せします)

もし失敗したらこんな恥ずかしいことはありません。

必死にこらえて辛うじて事なきを得ました。

しかし、この時の思いは生きた心地がしませんでした。

普段からお腹の緩い娘たちの苦労がわかりました。便秘のほうがまだましだとつくづく思った次第です。旅先では何が起こるかわかりません。酔い止めプラス・ストッパー(下痢止め)これは必需品です。

娘が仕事に行き詰まって悩んでいた時の事、気晴らしになるようにと買った本があります。

「死ぬかと思った」というタイトルです。人があることで失敗した話を集めて本にしてあるのですが、本人にとっては気の毒なのですが、本当に笑えるし何故か救われた気持ちになるのです。みんなも頑張っていっぱい失敗をしているんだな~と思って…。

その中の一つ、鼻水が止まらない中学生の男の子。ちょうどいいものがあると鼻の中に突っ込んだものは、お姉ちゃんの使っていたタンポン。予想以上に膨らんで取れなくなって病院へ。

赤っ恥をかく出来事って、意外とたくさん起きているんだな~と本を読んで思いました。

すべて笑い飛ばして人生明るく生きていくのに限る。

人は達成感を原動力にして生きている。

生きていて何が楽しいかというと、人は、何かを成し遂げることに喜びを感じるのではないかと思う。誰かのお役に立てられることは生きがいにつながる。しかし、高齢になると足手まといになっても、他人のために手助けできることは、だんだんと減ってくる。ここで頑張る必要はない。無理なのは無理なのだから・・・。方向転換をして別な楽しみを見つけること。今の時代はその点、自分さえその気になればいくらでも探せる。小さいことでも達成感を得ることができる。その達成感というのは生もので、鮮度と新しいチャレンジがなければ簡単には得られない。刺激が必要なのである。

ちなみに私は毎日、車を運転し家族の足に使われ、ハードなパートの仕事をこなして孫の守りもし、家族四人の食事の用意という普通の生活をしているが、自分だけの時間を必ず取っている。

私のおもちゃはパソコンである。これで、頭のよくなるゲームをしたり、ジクソーパズルをしたり、タイピング練習をしたりと飽きっぽい私には向いた遊びで小さな達成感を味わって生きている。人から見ればつまらないと思うことでも、自分がその時楽しければ、いいと思っている。

プロサッカーを目指す孫や、剣道に打ち込んでいる孫の成長を見守りながら、感謝・感謝の毎日を暮らしている。

春山登山で思うこと

毎年のように、春山登山の遭難のニュースが出る。前途ある若者が命を落とすのは、胸が痛む。私の子供のころの話である。母が小さな美容室を営んでいて、当時は結構はやっていたので、母はいつも忙しく働いていた。私のことはほったらかし状態だったので、私はいつも自由気ままに遊んでいた。家の向かい側に貸本屋があった。主に漫画の本が主流である。私はそこの本を片っ端から読みつくした。あまりにもたくさん読みすぎたせいか今はもう読む気にならない。しかし当時は、まだ娯楽というものが少なかったので、漫画のジャンルは選ばず色々読み漁りひそかに楽しんでいた。

その中の一つの作品にこんなのがあった。ある学園に、転校生らしいAという男子学生が現れる。誰もその学生のことを知らない。B君はそのA君のことが気になり、話かけて友達になる。A君から山登りに一緒に行かないか誘われる。山の魅力を語るA君の話を聞いてB君はA君と伴って登山をするが、遭難をしてしまう。最初からA君は存在していない。山で遭難した人たちが寂しくなって、亡霊となって友達を山に誘い込むらしいというお話なのだが、いつまでも恐怖が残っている。で、遭難事故があるたびにこの話を思い出してしまう。山とか海とかは危険がいっぱいある。私たちはほとんど自然の中で生まれ育ったという感じだが、今の人たちは、無機質の中に囲まれていて、突然外に放り出されたら、生きていけないのではという危うさがある。危険察知能力が鈍化していってないだろか心配になる。其の時だけの訓練はかえって危ない気がする。

頭でっかちになりすぎて今は、地に足をつけて考えることが難しい世の中かもしれない。。

 

相手との妥協点はどこにあるのか

洗濯機で不自由を感じることがある。娘たちとの共同生活。主人と同じ洗濯機を使うことで生じる問題。私は、主人の洗濯物は洗濯機に入れる前に手でもみ洗いしてから入れている。出来ることなら洗濯機が別々だといいにだけれどそれは無理。それを解消できる方法はないものか?私の子供のころ親せきの家で見た手動式洗濯機を思い出した。

まるい地球儀のような形のものに、洗濯物を入れてそれを手でくるくる回すというものがあった。簡易式の洗濯機が欲しい。洗濯槽のなかに入れる前に予洗いしたいのである。

主人と二人だけの生活なら必要はないのだけれど、娘との間に立って悩ましいことが結構あるのだ。以上に潔癖な娘と、衛生面で全く気にならないその父親との板挟みに苦労している。主人のプライドを傷つけないように気をつけさせるのは難しい。

それにしても度の過ぎる潔癖症は生活不適合者になる。

人間はどこかで折り合いをつけて生きている。でなければ生きてはいけない。

何事も行き過ぎはよくない。想像力や清潔感など美徳と思われることも行き過ぎると、コミュニケーションに問題を生じる。しかし、ほどほどというのも程度が分からない。

複雑な状況が絡んで、その時一番いいだろうと思う妥協点を見出していくしかない。

わがままを通せるうちはよいが、通せないことが増えてくる。

わがまま度が強い人が、ストレスをためる。

相手を許すとか受け入れるということは、その人の人間力によるのだが一生の課題である。